無双堂には他の整骨院とは明らかに違うところがある。
それは御年配のお方が驚くほど少ないことだ。
整骨院といえば、その世代の方が圧倒的に多いのが普通であるが、
無双堂にはその現象が起きない。
理由は何だろうと考えると、その世代に受ける様な
「グイグイ押す」治療をしないことにある。
「この先生はよく揉んでくれるのよ~」という
「押す=良い」という構図が一般的にある訳だが、
果たしてそれが良いのかという事はあまり考えられていない。
無双堂の様に柔らかい手技をする処というのは、かなり異質なのだと思う。
そんな私も以前の場所では、「ドS先生」と言われたことがあった。
深部に効かす様に押して、瞬間的に痛みを緩和させるのだが、
それがツーンと響いて少し痛いのだ。
相手は痛みの後には楽になるのだが、
私がニコニコして喜んでいる様に見えたのだろう、
それから「ドS先生!」と一部の方から言われたものだ。
今から振り返ると「治す治療」をしていたと思う。
これは俗にいう「名医」と呼ばれる治療家が使う手技に近いのだが、
あえて言うならば、それを進化させたやり方ではあった。
(細かい事を書くと長いので割愛)
しかし、無双堂を開院した途端に、その「治す治療」が使えなくなってしまった。
厳密に云うと何かが私にさせなくするのだ。
使おうとすれば出来るのだが、する氣がしなくなる。
そもそも以前から「治す治療」には疑問を持っていた。
理由は、術者の存在をありありと魅せつけ、、、
完全に「治してもらう治療」となっている。
「痛みがある」→「先生が存在感を出しながら治す」
→「先生に依存する」→「何かあったら先生に治してもらう」
という構図が出来てしまう。
これは患者さんの潜在意識に依存する心が生まれ、
自然治癒力が発揮できないばかりか、本来の自分を信じた生き方が出来なくなってしまう、
と考えていた。
そこで、如何に術者の存在を消し、軽い刺激で深部まで届き、
「いつの間にか治っている」、という道を模索したのだった。
模索して1年半程すると、エネルギー(氣)に対する認識が更に深まり、
新たな整体法が次々と生まれ、完全にオリジナルな治療法を確立した。
基本的に柔らかい手技(軽擦等)で行っているが、
例え大きなモーションをかけても、患者さんにはそれほど刺激を感じない様にしたり
(内部には風が抜ける感じ)、エネルギーを瞬間的に投げて、触れていなくても筋肉を緩める技法だとか、
矯正をかけても痛みを感じさせない様にする等の工夫をしている。
治療の行き着く処は、非常にシンプルなモノになっていくことが理想だ。
最初は「技」をもって治していたものが、軽く擦るだけで良くなり、
それが触れるだけ(氣功)のものになり、そして触れなくても、
空間に流れるエネルギーだけのやり取りで、事足りる様になっていく。
例えば、子供は純粋なので、少し触れてエネルギーを通すだけで直ぐに意識が飛んで寝てしまう。
その後に、無意識の状態で体がピクピク動き、
自分の力で治してしまうから非常に楽だ。
大人でも感受性の良い体はある。
最近では、アキレス腱を6~7割くらい切って手術をしたご年配の方がいた。
歩くのも大変だというから、激しい事はせず、只触れるだけの氣功をした。
すると体が暴れる、暴れる。
ベッドから落ちるかと思う程の凄い動きだ!
動かしたら痛いのじゃないかと思う足首も大胆に動かすのだ。
すると数回でかなりの回復力をみせ、日常生活に戻られた。
こんな事を臨床で観ていると、○○は治るのか?
という質問には、
「貴方は本来の自分に戻るだけの資質をどれだけ持っていますか?」
と聞き直さないといけないのかもしれない。
さぁ、体の声に耳を傾けて大きく伸びをしてみよう。
伸ばして気持ちが良い処があるはずだ。
それを見つけられる事が、感受性の良い体になる第一歩となるでしょう。
マッサージは痛いモノ・・・、そんな世の中の風潮があります。
押されたら、患者さんも力を入れて踏ん張る。
これが「揉み返し」という現象を起こします。
そして、この負のループは延々と続きます。何処か良い治療所を紹介して下さい、
と遠方の方から言われると困りますが、その先生の腕前を調べる一つの方法を教えます。
指の腹を見て、柔らかければOK。
硬ければ・・・、う~ん。
理由は皆さんで考えて下さい。
整体技術をする場合は、具体性があるように見えて、
具体性の無い、よく分からないモノが良いと思います。
技を使った時は「マジック」と称す方や
「気持ち悪~~(不思議で仕方ない事からそんな表現も)」と言われることも・・・。
「キツネにつままれた感じ」が理想的。
すると、潜在意識層にアプローチをかけられます。
宝塚市の無双堂鍼灸整骨院では、エネルギーの調整もしています。