「新しい棟が建ったから来なさいな!」
ある方にお誘い頂き、車で現地に向かう。
外の景色に目をやれば、田んぼには赤ん坊の稲が植えられ、畑には大地の恵みを吸いながら茎を伸ばす野菜達。
山々の新緑の力強さを肌で感じながら、目的地に向かう。
我が家から数十分程で、ガラリと景色は変わり、ある高台の坂道を登れば一際お上品な家が現れる。
門をくぐれば、大きな庭園が佇んでいる。
その中には一休み出来るあづま屋があり、近くには庭に負けない大きな灯篭が存在感を示す。(昔の阿蘇山の噴火でできた火山岩だとか)
一角に設けられた椅子に腰を掛ければ、樹木の間からは湖が覗め、なんだか軽井沢の別荘地にでも来たかの様な気持ちになる。
前回は母屋しか建っていなかったのだが、今回は、また別に離れが造られていた。
モチーフにしたのは、初代三菱の岩崎弥太郎さんの別荘。
母屋も離れもシンプルな構造体であるのだが、その一つ一つの洗練された素材と、無駄なモノを置かない空間の間のもたし方は、日本特有の美と言える。
地震に負けない強固な基礎、柱は風土に合ったヒノキを使い、フローリングにはシロアリに負けない固い栗の木、水をこぼしても染み込むことなく弾く特殊な編み方の本物の畳・・・。
これだけのモノを一体誰が造っておられるかといえば、驚く事なかれ、齢93歳の御婦人。
今も多くの本を読み、裁縫もされる。
また畑も土作りから始め、雑草一つ生えてはいない。
もちろん、無農薬・無化成肥料だ。
綺麗に整頓された畝は御婦人の性格を表しているようだ。
出会いは7・8年前だったと思うが、引っ越しの挨拶詣りの際に、御婦人と挨拶を交わした時が始まりだった。
「貴方たちは良い人だから、別荘に来なさいよ」
と言って頂いた。
何も話してはいない、只少し挨拶をしただけなのだが、それだけで解ると言って呼んで頂いたのが最初だった。
(近所の方はほとんど呼んだことが無いそうだ)
その頃は、プレハブの様な小さな仮の家で、庭づくりから始めていた。
何故かというと、家を建てられない法律になっていたのだ。
その土地を売りに出していたT市は、宅地と言って売りに出していたのだが、実際は「調整地区」としての扱いだったため、家が建てられないというのだ。
これは完全にT市の不手際でそうなってしまったのだが、後から法律が変わった為に仕方がないといって逃げていたのだが、御婦人は役所に乗り込み淡々と事の経緯を話していく。
最初は年寄りだからと、適当にあしらえると思ったであろう役所も、相手が悪かった。
頭脳明晰に、言う事に誤りも無ければ隙もない。
当時の担当した人も覚えているから、引っ張りだしてきなさいと言う。
「法律は誰の為にあるの?市民の為にあるんでしょう!!」
そんなこんなで何年か経ち、遂に法律的に建てられる条件を引き出した。
このバイタリティーは一体何処からくるのだろうか。
昔話を聴いていると、少しずつその力強さの秘密が垣間見られる。
昔は看護婦長として、戦争の最前線で救助活動をするために志願した。多くの若い兵隊達が彼女の腕の中で、永久の眠りについたのであろう。
彼女は言う。
どんな兵隊さんでも最後は「お母ちゃん!!」と言って亡くなっていくのだと・・・。
御婦人の人生は決して楽なモノではなかったはずだ。
どうやら女で一人で二人の子供を立派に育てたようで、女性の力が弱い時代だけに、大変な苦労をされたであろうことは想像に難くない。
そして、これだけのモノを作られる経済力も感服させられる。
しかし、御婦人の体は決して丈夫な訳でもない。
過去には沢山の病気をしているために、いくつかの内臓は無い。
今の様に負担の少ない内視鏡があるのではなく、昔の開胸手術を何回かしている為、筋肉が引きつって腰は随分曲がっている。
だからといって弱いイメージが丸っきり無いのだから凄い!!
昨年、湖を見ながら色々と話していると、私の顔をジッと見て腕を伸ばし、人指し指を前方に向けてられて一言。
「私は、前しかみないよ!!」
その純粋な瞳は、何とも言えない少女の様に夢に向かって突き進む勢いがあった。
家族をこよなく愛し、子供の世話になること無く、それどころか孫達の将来の為にと邁進しておられる。
尊敬すべき、「がばいばあちゃん」である。
私の義理の御祖母様は93歳。
記憶力もしっかりしていて、裁縫を得意として、先日までは新舞踊の舞台にまで現役で出られていた。
見た目も80歳ぐらいに見えるので、年齢を聞けばほとんどの方が驚かれる。
好きな事に邁進していると、肉体を凌駕できる力を発揮できるという事を教えて頂ける稀有な方達だ。
誰もが恵まれた環境という訳ではない。
その置かれた状態で如何に工夫していくかが、人生を大きく変えていくのかもしれない。


日本初のヨーガ行者。
天風会を発足し心身統一法を広めた。
心を強くすることにより、肉体の生命力を上げることが出来る事を説いた。
その教えは、政界・経済界・芸術・スポーツ等のあらゆる分野に影響力を与えた。
若かりし頃はスパイ活動として大陸で活動をしていたが、日露戦争後に100%死ぬと言われた「奔馬性肺結核」を発症。
スパイ時には「人斬り天風」と異名を持ったが病気後、弱くなっていく心の救いを求めて世界中の著名な哲学者に答えを求めた。
しかし、誰にもその答えがなく絶望と衰弱する体を引きずり、日本で骨を埋めようと船に乗りこんだ。
偶然居合わせた、ある男が天風先生の体と心を霊視して、病気を言い当てた。
「私について来なさい」
といわれ、何処の誰かも知らなかったがついて行くことになる。
ある男とはヨガの伝道者、ヒマラヤの聖者カリアッパ師であった。
この時に天風先生はヨガの奥義を体得し、病気を克服したのだった。
私は若かりし頃、天風哲学に触れた事により今日の自分があると断言できる。